人生のむなしさに苦しんだ俺は、フランクル心理学に生きる意味を教わった(アンダーライン)

「それはニヒリズムっていう病気だよ。そして、原因は『実存的虚無』だよ」

ニヒリズムっていうのは、虚無主義なんていわれたりもする。何もかもがむなしくなって、人間が生きることには意義や価値など無いって思うことさ」

 

「実存的虚無感というのは、自分という存在が何の意味もないと感じてしまうことだ。つまり、自分という存在に意味がないと思っている。それによって、人間が生きるということにも意味が見いだせなくなって、人生に絶望してしまっているんだ」

 

「『実存的虚無感』というのもフランクルが使い始めた言葉だ。そして、フランクルが教えてくれることはシンプルだ。それは、『人間は、どんなときでも人生にイエスということができる』ということだ」

 

人間はあらゆることにもかかわらず 困窮と死にも関わらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても、 人生にイエスということができるのです。(それでも人生にイエスという)

 

私たちが「生きる意味があるのか」と問うのは、初めから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われる存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。(それでも人生にイエスという)

 

「俺たちが生きる意味を見つけるんじゃない。『向こう』が俺に生きる意味を与えるんだ。いや、『向こう』が人生の問いを投げかける。俺たちはそれに答え続けなきゃいけないんだ」

 

「そう、『向こう』だ。『向こう』とは人生の側だ。つまり、人生が俺たちに問いを出している。俺たちはそれに答えなきゃいけない」

 

これは人生の意味のコペルニクス的転回ともいわれている。普通、人は自分の生きる意味を問う。『自分が生きることに意味はあるのか』『自分の生きる意味は何か』と。でも、本当は違うと、フランクルはいっているんだ。人間は『人生から問われている存在』なんだ。だから、問うべきことは、『自分は人生から何を期待されているか』だってこと」

 

しあわせは、決して目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。(それでも人生にイエスと言う)

 

フランクルは幸せを目標にすることに否定的だった。なぜなら、自分の幸せを追うことは、そいつを幸せにしないからだ。むしろ、幸せを追求する人間は、不幸になる

 

強制収容所では、人間の本性が現れたとフランクルは言っていた。そりゃ当然だ。自分が生きるか死ぬかの場面で、良い人ぶろうとする人間なんていやしない。でもその強制収容所でも人間は2種類に分かれたんだ。それ、『魂を売らない人間』と『魂を売ってしまった人間』だ

 

強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できる時が来る、と信じていた。けれども現実には、人間の真価とは収容所生活でこそ発揮されたのだ。(夜と霧)

 

人間の真価っていうのは、苦しい状況でこそ発揮されるって俺は思っているよ。だから、生きるということは義務であり、重大な責務なんだ。

 

苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのです。(それでも人生にイエスと言う)

 

本当にそうなるかどうかは重要じゃない。あんちゃんが苦しんだことで、あんちゃんにしかできないことが増える。そして、それが誰かを救うことになるかもしれない。それだけでも、苦しむことには意味があると思えるんじゃないか。

 

どんなことがまだ自分を待ち受けているかはだれにもわからないのです(それでも人生にイエスと言う)

 

ユーモアは自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離を取り、状況にうちひしがれないために、人間という存在に備わっている何かなのだ(夜と霧)

 

人生に意味があるという証拠は確かにないさ。でも、人生に意味がないという証拠もない。それなら俺は、人生に意味があると思いたい。それに俺は、人生に意味があると感じる瞬間があるんだ。それだけでも、俺にとって人生に意味があると思う理由になるんじゃないか。

 

生きることに意味があってほしいと思うなら、そう思えばいいじゃないか。しょせん、俺たちなんて人間という動物にすぎないんだぜ。神の実在を証明することも、神の不在を証明することもできない。それなら、信じたいことを信じればいいんじゃねえのかな。

 

それでわかったんだ。俺に必要なものは、ほとんどないってことに。毎日を生きるための食事があればいい。心を養うための本があればいい。一緒に時間を過ごす仲間がいればいい。自分にとって何が大切かっていう、自分の価値観がわかっていれば、他人に振り回されなくなるんだ。

 

楽しみから人生の意味を見つけることはできないよ。楽しみは心に栄養を与えてくれる。でも、楽しみによって人生に意味が与えられるわけじゃないんだ。

 

フランクルは、人生を意味あるものにできる『三つの価値』を発見したんだ。『創造価値』『体験価値』『態度価値』の三つだ。創造価値は何かを創造したり、活動したりすることで実現される。

 

自分が何を大切にするか、自分にとって何に価値があるかは、頭で考えただけじゃわからない。価値ってのは、机に向かって考えれば見つかるようなものじゃない。人生を生きることで、自分がなにを大切にしているかがわかるんだ。

 

苦しみと向き合うことは難しい。多くの人は、苦しいことがあれば、その苦しみから逃れる方法を考える。でもその時、立ち止まって考えてみるんだ。『この苦しみは二度目だ。一度目は、この苦しみから逃れようとして失敗した。じゃあ今度はどうする?』ってな。そうしたら、あんちゃんにはわかると思う。あんちゃんがするべきこと。つまり、あんちゃんに『人生が何を求めているか』がな

 

涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気を持っていることの証だからだ。(夜と霧)

 

自分の涙を恥じることはない。自分の弱さを恥じることはない。僕は苦しくても、生きなければならない。それが、僕に与えられた『人生からの問い』なのだから。

 

人間はさ、自分に関心が向きすぎているんだと思うんだ。自分、自分、自分、自分。でも、自分の中を探したって、幸せなんて見つからないぜ。だから、常に周りを見なければいけない。どこかで誰かが困っている。人生は常に問いを投げかけているんだ。俺たち人間はそれに答えなきゃいけない。自分の命を使って、それに答え続けなくちゃいけない。それに、与えられていると思っても、本当は与えているのかもしれないんだ。人から親切にされたとき、それを受けとることも一つの優しさだよ

 

そしてフランクルは『意味への意志』を唱えた。意味への意志っていうのは、人間は『意味を探求する存在』『意味を求める意志を持った存在』だってこと。そして、生きる意味がが見いだせないこと、『意味への意志』が満たされないことが『実存的虚無感』『虚しさ』の原因だと考えたんだ

 

命が与えられているという事実が、人生が俺たちに生きることを求めている証拠だと思う

そして、どこかに助けを必要としている人がいる。優しさを必要としている人がいる。

 

可能性に過ぎないものを実現する・・どういうことですか?

『人生に意味がある』と決断することは、『人生に意味がある』世界を、自分が生きるということになる。つまり、決断することによって、『生きる意味がある世界』を、自分自身で『実現する』ことになる。だから、決断とは命を懸けた行為なんだ。自分の命を懸けた、自分の人生を左右する決断。それによって、世界が『生きる意味がある』ものとなる

 

あたかも、二度目の人生を送っていて、一度目は、ちょうどいま君がしようとしているように全て間違ったことをしたかのように生きよ(それでも人生にイエスと言う)

 

ことばのやり取りが限界に達するところに来ました。ここではもはや議論や講演は役にたちません。ここに残っているのはもう、ただひとつ、行動だけです。しかも日常の中での行動だけです(それでも人生にイエスと言う)