自分を許す

自分を許すということ

 

何をした自分を、ということではない

どんな自分でも許す

 

怖がっている自分

過去を悔やむ自分

他人と比べてしまった自分

憎む自分

心配する自分

落ち込んでいる自分

 

すべて許す

どんな自分も許す

それが自分を愛することにつながる

自分を大切にすることになる

 

自分を大切にする

自分を愛する

 

これが生きている自分にとっての一大プロジェクト

最優先課題

 

今ここ 

今ここを生きる

しっかり味わう

心配事がスッと消える禅の習慣(アンダーライン)

みんなが心配といっているのは、心を痛める心痛である。本来、心配とは他者を気にかけて心を配ること。心痛ではなく、たくさん心配するといい

 

もっと自分にも心を配っていい。もっと自分を大切にしていい

 

心配性の方は、まだ起きてもいないことを気にしすぎるあまり振り回され、心を痛めてしまっているのでしょう。でも大丈夫。この本を読めば自分にも心を配れるようになり、今まで抱えていた心の痛みはスッと消えていくはずです。

 

問題なのはそこに執着が生まれてしまうこと。受験が失敗するとも決まっていないのに、成績や友達の心配までし始めたら、心配事に終わりがありません。ポッと湧き上がってきた感情から派生して、ああでもないこうでもない、と考え始めてしまう。

それを禅では「執着」といいます。心配することが苦ではなく、執着が苦を生むのです

 

人生100年といわれる時代ですが、悠久の歴史から見た100年なんて、定規で示せばわずか数ミリ程度のもの。この貴重な人生の時間を、自分の頭が描き出した「妄想」により、自ら苦しみを引き寄せていては実にもったいない。そうは思わないでしょうか。

 

無常。この世にあるもの、形あるもの、意識、感情はすべて移り変わり、一瞬として同じ時はなく、何一つ同じものは残らない。この世は常に移り変わっていく。この意識を持って世の中を眺めてみれば、今という時間の尊さに気づくことができます

 

仏陀は次のように教えています。「過ぎ去ったことを追ってはならない。未来のことについて夢のような考えを持ってはならない。みんなそれぞれの時間が決まっている。だからあっという間に過ぎていくもの、瞬きをする間になくなっているところのもの、つまり現在のみをよく観察するべきだ」

 

私は毎日を「新しい心」で生きるように心がけています。「新しい心」とは、過去や未来にとらわれない、「赤ん坊の心」といったところでしょうか

 

「赤ん坊の心」で生きるのを習慣にしていると、生きていることに自然と感謝の気持ちがわいてくるから不思議です。朝、目を覚ました時に、「生きている!」と新鮮な気持ちで毎日を送ることができるのです。公園の木々が青々しく茂っているのを見て感動したり、心地よい風に吹かれて生の喜びを感じます。過去というフィルターを通さず世界を見ると、世の中はこんなにも美しいものにあふれているのかと毎日が発見の連続です。生まれたばかりの赤ん坊が、さまざまなものに興味をいだくのと同じかもしれません。

 

目に映ったままを見るというのは、簡単そうに見えて、案外難しいのです。でも、これができるようになると、森羅万象、世の中にあるすべてのものが先生になります

 

感情や思考は、水を注いだときにできるあぶくのようなもの。姿を見せるのは一瞬で、本来であればすぐに消えてなくなります。それなのに、私たちはわざわざあぶくを救い上げ、消えないようにあれこれと手をつくしてしまうからややこしくなる。わざわざ、自分でややこしくしているのです。

 

これと同じで、レットイットゴーを習慣化させることで「心の免疫力」も上げていくことができると私は考えます。何が起きても動じず、他人に振り回されない生き方をしている人は、「心の免疫力」が高い人、ともいえるでしょう

 

レットイットゴーの利点は、一つの感情に執着しないことに加え、今ある感情を手放すことで、次の気づきや感情を受け入れる余白が生じることです

 

一つの感情にとらわれて長く持ち続けることは、新しい自分と出会う機会を奪ってしまいます。常に新鮮な自分であるために、あるがままに感情を受け止めて、どんどん手放していきましょう

 

和尚さんも私も、何も言葉を発してはいません。答えを教えてくれたのは、目の前に広がる庭であり、自分だけの時間です。ただ眺めている間に、何がヒントになったのかはわかりません。けれど、どんなに弱っているときも、人は自然から気づきをもらうことができ、自分で答えを見つけることができる

 

私たち人間は、森羅万象の一部であると実感できたとき、本当の安心感を抱けるのかもしれません。そのことを、この二つのエピソードが教えてくれていると思います

 

このかき混ぜられた泥水こそが、私たちの心の状態です。私たちの日常はいつなんどきも感情とともにあり、手放すにしろ執着するにしろ、湧き上がってくる感情に対処することを繰り返しています。つまり、私たちの心は、かき混ぜられたコップの中の泥水のままで視界がクリアになる瞬間がなければ、自分の本心がどこにあるのか、何を大切にしたいと考えているのか、湧き上がった感情の何に反応してこころが乱されているのか、わからなくて当然です。だから、いったんコップを置き、心を鎮めることが必要なのです。実は、このコップを置くという動作こそが、座禅です。

 

かつてこの話を聞いた女性から、最近になり、「実はあのときコップの話を聞いてから、とても気持ちがラクになったんです」と打ち明けられました。ふと不安がよぎったとき、イライラした時、悲しいとき、強い感情が押し寄せたとき、「大丈夫。私は今、泥水の中にいるだけ」と思うことで気持ちが落ち着き、感情の暴走を防げるようになったといいます。感情のコントロールはできる。それが真実だと教えてくれるエピソードです

 

今は情報の流れるスピードも速く、すぐに答えを求めようとしてしまいがちですが、静かにコップを置いたら、答えが出るまでそのままのんびり待ちましょう

 

繰り返しになりますが、心配は自分が生み出した感情にすぎません。必ず、いつかは消えてなくなります。そのことを私たちは、これまでの人生の中でたくさん経験してきています。その事実を少し思い出してみるだけで、ちょっとした心配事であれば手放すことができるでしょう

 

人は生まれてから死ぬまで、孤独なときは一瞬たりともありません。

 

土の上に人と人が座り、対話している姿を表している座禅という字。誰が対話しているの?というと、自分と誰かではなく、自分ともう一人の自分が対話をしているのです。自分が自分という「自我」と、本来の自分である「自己」との対話です。ですから、座禅をするかぎり、もう一人の自分と常にある。絶対に一人ではないのです

 

いいときも悪い時も、生活はいつも同じがいい。常々、祖父の語っていた言葉です。

いいときに舞い上がって贅沢をすれば、その贅沢ができなくなったときに、自信を失い、落ち込むでしょう。少し仕事に翳りが見えたら、不安で仕方なくなるでしょう。無常の本質とは、「始まりのあるものには必ず終わりがある」ということです。心配事のようなネガティブな事象に終わりがあるのと同様に、そのとき心地よかったことにも必ず終わりがやってきます

 

「無尽蔵」というのは、底がないからたくさん入るという意味の禅語ですが、底があれば過去からのものが蓄積されてしこりのように頭をカチカチにさせてしまいます。底が無い状態にしてやると、新たな考えがどんどん入ってくる。なんとなく、わかる気がしませんか?

 

私は、幸福だから感謝の気持ちを持てるのではなく、感謝の気持ちこそが幸福を呼んでくれるのではないかと思っています。そのことを忘れずに「ありがとう」の気持ちを持って生きていると、心が内向きになることがありません。自分を過大評価することもありません。あれほど難しいと思っていた「ありのまま」を素直に受け入れることができます

 

もちろん、感謝の心で暮らしていても、瞬間的に心が荒れてしまうことがあります。そんなときは、コップの話を思い出してください。一旦コップを静かに置き、深く深呼吸をします。ありがとうと深呼吸の組み合わせは、最強です

 

私は人生の終わりにも「ありがとう」といえる生き方をしたいと思っています。もし、余命の宣告を受けたら、やはり恐怖心も湧き上がってくることでしょう。それでもなお、家族に出会えたこと、その日の出会い、口にしたもの、水の一滴、すべてに感謝をしていたいと思っています

 

なんのために自分にひどい仕打ちをした相手を許すのかといえば、それはほかでもない、自分のためです。自分を裏切った相手を許さずにいると、いつまでも苦の感情を持ち続けることになり、そこに執着が生まれます。執着は一つのところに自分を縛り付け、身動きができないようにします

 

昔から「笑う門には福来る」といいますが、笑顔でいることで、マイナスになることは一つもありません。ひどいことをされたにもかかわらず相手を許し、いつも笑顔でいるあなたを必ず誰かが見てくれています。少なくとも仏様は、そんなあなたを見守ってくれています

 

静かな床の間に飾られた、一輪の花。その凛とした佇まいからは、美しさと同時に力強さを感じます。豪華さや華やかさでは花束にかないませんが、一輪挿しにはずっと見ていても見飽きない、人を引き付けるパワーが備わっているようにも感じます

 

家族は一緒にすごした時間が長い分、過去の出来事などに執着が生まれてしまいがちですが、今、自分がここで暮らせていることに目を向け、今一度、家族が自分にとってどういう存在であるのかを問い直してみましょう

 

死は誰にでも平等に訪れますが、生きる長さは平等ではありません。でもそれは、私たちにコントロールできることではなく、当然のことながら、生きた長さにいいも悪いもないのです。残された者たちが早すぎる死だと感じたとしても、それがその人の寿命であった。その人は寿命をまっとうした。こう考えるほかないのだと、父の死を通して知りました

 

 

取り組むこと

FX、ずっと惜しいところで止まっている。

課題は、負けた時の冷静さを欠いたトレード。

ここでルールを破ってしまう。

ここでレイキの俯瞰を使えないだろうか。

しっかり自分を俯瞰する。

そうすれば、落ち着いた行動ができるだろう。

必ず成果が出てくるはず。

 

レイキ 今月は久しぶりに練習会。

わくわく楽しみにしている自分がいる。

もっとレイキを深めて上達する。

 

頑張らなくても続けられるようにして、続ける

音楽も

 

すべて複利

 

意識の使い方

意識の使い方が大切だということを学んだ。

私は先天的かどうかはわからないが、心配性である。

人にどう思われるか、そういうことを兎に角気にしすぎる。

自分ではそんなもんだと思っていたが、だんだん自分を俯瞰できるようになってくると、この傾向を持っていることがわかってきた。

 

いわゆる他人軸である。

自分軸で生きること、これが来年の目標になった。

司法書士試験に合格したことでわかったことは、一度や二度やって見に付かないことも、十回二十回やれば身に付くということ。

 

自分軸で生きようとすること、他人の目を気にしないようにすること。

こういったことも基本的に同じだと思う。

 

話を戻して意識の使い方である。

意識を自分の望む方に向ける。

一つの出来事も色々な面がある。

悲観的な人はマイナス面にフォーカスする。

楽観的な人はプラス面にフォーカスする。

 

フォーカスしている時間が長い方の現実ができてくる。

 

とにかく、自分の気持ちをゆったり心地よくいられるように。

そういう時間が長くなるように気を付けていく。

 

実験感覚で、軽やかに。

深刻なモードは風の時代にはふさわしくなく、罠の方にすべりゆく。

 

人間完璧にはなれないのだが、少しずつでも改善していけることもまた真実である。

シンプリスト生活(アンダーライン)

人生を楽しむには、「荷物」は少ない方がよいです。それは「物理的なモノの荷物」はもちろん、「こうあらねばならぬ」という世間の常識や固定観念、あるいは、「こうなったらどうしよう」といった、考えてもしょうがない不安、さらには、他人から見下されることを極端に嫌う、他人へのプライドといった「心の荷物」についてもいえるのではないでしょうか。

 

これだけ検討しても失敗することも多々あります。でも「自分には不要だった」という知見は買って使って初めて得られる学びであり、次に活かせばよいだけの話です。

失敗したら、手放せばよい。フリマアプリもあるし、ネットオークションを使えば、失敗のコストは低く抑えられます。何も買わない、何も手放さない、つまり、挑戦も失敗もない人生って、なんだか味気ないです。

 

行雲流水

この禅語は、文字通り、空を漂う雲、流れる水のように一か所にとどまらず、流れるように生きる様を示しています。私は、人間も自然も変化こそが本質であり、変化しないのは不自然であるという教えと解釈しています。

 

養老孟司さんが「人はなぜ生きるのでしょうか」というインタビュワーの質問に答えた言葉「そういう質問が出るのは暇だから。そんな暇があったら、仕事でもゲームでも何でもいいから、夢中になれることをやればよい」と一蹴していたのを覚えています。

 

モーニングページとは、ジュリア・キャメロン著『ずっとやりたかったことを、やりなさい』で紹介されている創造性を回復する基本メソッドのひとつで、毎朝三ページ、心に浮かんでくるものをそのまま書き留めるルーティンのことです。

 

詰まってはいないけど満たされていて、退屈だけど美しい、そんな時間です。

 

脳科学の研究によると、こんなことが明らかになってきています。「脳は忙しくしている時よりも、何もせず、ぼーっとしている時の方が2倍多くのエネルギーを使っている」つまり意識的に脳を使う時よりも、何も考えていない時の方が脳は活発に働いているのです。脳のこのような機能は「デフォルトモードネットワーク」と呼ばれ、考え事をしている時に特定の部位にしか行っていなかったエネルギーがより広範囲な場所に届くことによって有機的なつながりが生まれてくるのです。だから、新しい発送がひらめくというわけです。

 

このぼんやりする時間は、効率性の対極にある、最高に無駄な時間ですよね。だからいいと思うのです。

 

以前は他人に称賛されたりお金をたくさん稼がないと幸せになれないとばかり考えていました。でも本当の幸せは、いつも通りの日常にこそあるのかもしれない。だとすればその幸せを感じられるように、心に余白をつくっておくことは大切です。

 

タモリの言葉

『頑張ると疲れる。疲れるとやっぱり続かないですよ。』

頑張らなくていいんだと力がふっと抜ける好きな言葉です。家事は毎日死ぬまで続くものですから、無理するものではないのです。

 

行動経済学では、意思力は希少な資源とされています。面倒なことをつい先延ばしにしてしまうのは、意思が弱いからではなく、そもそも人は意思が弱い生き物のようです。

 

スタンフォード大学の研究結果に、「成功者のキャリア形成のきっかけは、8割が偶然である」というものがあります。だとすれば「よい偶然」を手繰り寄せるために、いろんな分野に関心を持ち、チャレンジする習慣が大切です。

 

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この本を読んで始めたこと。

お味噌汁の手作り。

昔はつくっていたが、最近は一人分ということもあり、お湯を掛けるだけのものを飲んでいた。昨日この本を読んだ後、会社帰りに味噌を購入した。一人でも使いきれそうな小さめのサイズでおいしそうなものを直観で選んだ。

切ってあった玉ねぎと小さい絹豆腐を入れて作った。

出汁は鰹節にした。

とってもおいしかった。

 

2人前できるので、翌朝あたためて飲んだ。

とってもおいしかった。

 

むなしいむなしいむなしい

虚しさ

 

それはいつでもあるわけではないが、

突如心の中に湧きおこる

 

自分が感じることは、いつも同じではない

 

先週満足していたのに、今週になると『これで良かったのだろうか』

という疑念が首をもたげる

 

こういうものなのだ、と割り切って受け入れるしかないのか

むなしさを感じないでいられる、心底満足した人生が、自分にもあるのか

 

今のままでも、心の方を変えることで、むなしさから脱却できるのか

 

むなしさの原因は何だろうか

自己の無価値観であろうか

 

自分の価値を何に置いているか

自分が何かすごいことをする、すごい存在でないといけないと思っている

 

気づき

~べき、~ねばならない が登場である

 

それを取り払う

自分は〇〇であるべき、ということはない

自分はあるがままで大丈夫、存在価値がある

 

そう心から受け入れたなら、何かを求めなくても

日々に満足できるだろうか

むなしさから逃れられるであろうか

 

そうかどうかはわからないが、可能性はある

心の思い癖は、繰り返し鍛えることで、変えていける

人生のむなしさに苦しんだ俺は、フランクル心理学に生きる意味を教わった(アンダーライン)

「それはニヒリズムっていう病気だよ。そして、原因は『実存的虚無』だよ」

ニヒリズムっていうのは、虚無主義なんていわれたりもする。何もかもがむなしくなって、人間が生きることには意義や価値など無いって思うことさ」

 

「実存的虚無感というのは、自分という存在が何の意味もないと感じてしまうことだ。つまり、自分という存在に意味がないと思っている。それによって、人間が生きるということにも意味が見いだせなくなって、人生に絶望してしまっているんだ」

 

「『実存的虚無感』というのもフランクルが使い始めた言葉だ。そして、フランクルが教えてくれることはシンプルだ。それは、『人間は、どんなときでも人生にイエスということができる』ということだ」

 

人間はあらゆることにもかかわらず 困窮と死にも関わらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても、 人生にイエスということができるのです。(それでも人生にイエスという)

 

私たちが「生きる意味があるのか」と問うのは、初めから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われる存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。(それでも人生にイエスという)

 

「俺たちが生きる意味を見つけるんじゃない。『向こう』が俺に生きる意味を与えるんだ。いや、『向こう』が人生の問いを投げかける。俺たちはそれに答え続けなきゃいけないんだ」

 

「そう、『向こう』だ。『向こう』とは人生の側だ。つまり、人生が俺たちに問いを出している。俺たちはそれに答えなきゃいけない」

 

これは人生の意味のコペルニクス的転回ともいわれている。普通、人は自分の生きる意味を問う。『自分が生きることに意味はあるのか』『自分の生きる意味は何か』と。でも、本当は違うと、フランクルはいっているんだ。人間は『人生から問われている存在』なんだ。だから、問うべきことは、『自分は人生から何を期待されているか』だってこと」

 

しあわせは、決して目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。(それでも人生にイエスと言う)

 

フランクルは幸せを目標にすることに否定的だった。なぜなら、自分の幸せを追うことは、そいつを幸せにしないからだ。むしろ、幸せを追求する人間は、不幸になる

 

強制収容所では、人間の本性が現れたとフランクルは言っていた。そりゃ当然だ。自分が生きるか死ぬかの場面で、良い人ぶろうとする人間なんていやしない。でもその強制収容所でも人間は2種類に分かれたんだ。それ、『魂を売らない人間』と『魂を売ってしまった人間』だ

 

強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できる時が来る、と信じていた。けれども現実には、人間の真価とは収容所生活でこそ発揮されたのだ。(夜と霧)

 

人間の真価っていうのは、苦しい状況でこそ発揮されるって俺は思っているよ。だから、生きるということは義務であり、重大な責務なんだ。

 

苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのです。(それでも人生にイエスと言う)

 

本当にそうなるかどうかは重要じゃない。あんちゃんが苦しんだことで、あんちゃんにしかできないことが増える。そして、それが誰かを救うことになるかもしれない。それだけでも、苦しむことには意味があると思えるんじゃないか。

 

どんなことがまだ自分を待ち受けているかはだれにもわからないのです(それでも人生にイエスと言う)

 

ユーモアは自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離を取り、状況にうちひしがれないために、人間という存在に備わっている何かなのだ(夜と霧)

 

人生に意味があるという証拠は確かにないさ。でも、人生に意味がないという証拠もない。それなら俺は、人生に意味があると思いたい。それに俺は、人生に意味があると感じる瞬間があるんだ。それだけでも、俺にとって人生に意味があると思う理由になるんじゃないか。

 

生きることに意味があってほしいと思うなら、そう思えばいいじゃないか。しょせん、俺たちなんて人間という動物にすぎないんだぜ。神の実在を証明することも、神の不在を証明することもできない。それなら、信じたいことを信じればいいんじゃねえのかな。

 

それでわかったんだ。俺に必要なものは、ほとんどないってことに。毎日を生きるための食事があればいい。心を養うための本があればいい。一緒に時間を過ごす仲間がいればいい。自分にとって何が大切かっていう、自分の価値観がわかっていれば、他人に振り回されなくなるんだ。

 

楽しみから人生の意味を見つけることはできないよ。楽しみは心に栄養を与えてくれる。でも、楽しみによって人生に意味が与えられるわけじゃないんだ。

 

フランクルは、人生を意味あるものにできる『三つの価値』を発見したんだ。『創造価値』『体験価値』『態度価値』の三つだ。創造価値は何かを創造したり、活動したりすることで実現される。

 

自分が何を大切にするか、自分にとって何に価値があるかは、頭で考えただけじゃわからない。価値ってのは、机に向かって考えれば見つかるようなものじゃない。人生を生きることで、自分がなにを大切にしているかがわかるんだ。

 

苦しみと向き合うことは難しい。多くの人は、苦しいことがあれば、その苦しみから逃れる方法を考える。でもその時、立ち止まって考えてみるんだ。『この苦しみは二度目だ。一度目は、この苦しみから逃れようとして失敗した。じゃあ今度はどうする?』ってな。そうしたら、あんちゃんにはわかると思う。あんちゃんがするべきこと。つまり、あんちゃんに『人生が何を求めているか』がな

 

涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気を持っていることの証だからだ。(夜と霧)

 

自分の涙を恥じることはない。自分の弱さを恥じることはない。僕は苦しくても、生きなければならない。それが、僕に与えられた『人生からの問い』なのだから。

 

人間はさ、自分に関心が向きすぎているんだと思うんだ。自分、自分、自分、自分。でも、自分の中を探したって、幸せなんて見つからないぜ。だから、常に周りを見なければいけない。どこかで誰かが困っている。人生は常に問いを投げかけているんだ。俺たち人間はそれに答えなきゃいけない。自分の命を使って、それに答え続けなくちゃいけない。それに、与えられていると思っても、本当は与えているのかもしれないんだ。人から親切にされたとき、それを受けとることも一つの優しさだよ

 

そしてフランクルは『意味への意志』を唱えた。意味への意志っていうのは、人間は『意味を探求する存在』『意味を求める意志を持った存在』だってこと。そして、生きる意味がが見いだせないこと、『意味への意志』が満たされないことが『実存的虚無感』『虚しさ』の原因だと考えたんだ

 

命が与えられているという事実が、人生が俺たちに生きることを求めている証拠だと思う

そして、どこかに助けを必要としている人がいる。優しさを必要としている人がいる。

 

可能性に過ぎないものを実現する・・どういうことですか?

『人生に意味がある』と決断することは、『人生に意味がある』世界を、自分が生きるということになる。つまり、決断することによって、『生きる意味がある世界』を、自分自身で『実現する』ことになる。だから、決断とは命を懸けた行為なんだ。自分の命を懸けた、自分の人生を左右する決断。それによって、世界が『生きる意味がある』ものとなる

 

あたかも、二度目の人生を送っていて、一度目は、ちょうどいま君がしようとしているように全て間違ったことをしたかのように生きよ(それでも人生にイエスと言う)

 

ことばのやり取りが限界に達するところに来ました。ここではもはや議論や講演は役にたちません。ここに残っているのはもう、ただひとつ、行動だけです。しかも日常の中での行動だけです(それでも人生にイエスと言う)