心配事がスッと消える禅の習慣(アンダーライン)

みんなが心配といっているのは、心を痛める心痛である。本来、心配とは他者を気にかけて心を配ること。心痛ではなく、たくさん心配するといい

 

もっと自分にも心を配っていい。もっと自分を大切にしていい

 

心配性の方は、まだ起きてもいないことを気にしすぎるあまり振り回され、心を痛めてしまっているのでしょう。でも大丈夫。この本を読めば自分にも心を配れるようになり、今まで抱えていた心の痛みはスッと消えていくはずです。

 

問題なのはそこに執着が生まれてしまうこと。受験が失敗するとも決まっていないのに、成績や友達の心配までし始めたら、心配事に終わりがありません。ポッと湧き上がってきた感情から派生して、ああでもないこうでもない、と考え始めてしまう。

それを禅では「執着」といいます。心配することが苦ではなく、執着が苦を生むのです

 

人生100年といわれる時代ですが、悠久の歴史から見た100年なんて、定規で示せばわずか数ミリ程度のもの。この貴重な人生の時間を、自分の頭が描き出した「妄想」により、自ら苦しみを引き寄せていては実にもったいない。そうは思わないでしょうか。

 

無常。この世にあるもの、形あるもの、意識、感情はすべて移り変わり、一瞬として同じ時はなく、何一つ同じものは残らない。この世は常に移り変わっていく。この意識を持って世の中を眺めてみれば、今という時間の尊さに気づくことができます

 

仏陀は次のように教えています。「過ぎ去ったことを追ってはならない。未来のことについて夢のような考えを持ってはならない。みんなそれぞれの時間が決まっている。だからあっという間に過ぎていくもの、瞬きをする間になくなっているところのもの、つまり現在のみをよく観察するべきだ」

 

私は毎日を「新しい心」で生きるように心がけています。「新しい心」とは、過去や未来にとらわれない、「赤ん坊の心」といったところでしょうか

 

「赤ん坊の心」で生きるのを習慣にしていると、生きていることに自然と感謝の気持ちがわいてくるから不思議です。朝、目を覚ました時に、「生きている!」と新鮮な気持ちで毎日を送ることができるのです。公園の木々が青々しく茂っているのを見て感動したり、心地よい風に吹かれて生の喜びを感じます。過去というフィルターを通さず世界を見ると、世の中はこんなにも美しいものにあふれているのかと毎日が発見の連続です。生まれたばかりの赤ん坊が、さまざまなものに興味をいだくのと同じかもしれません。

 

目に映ったままを見るというのは、簡単そうに見えて、案外難しいのです。でも、これができるようになると、森羅万象、世の中にあるすべてのものが先生になります

 

感情や思考は、水を注いだときにできるあぶくのようなもの。姿を見せるのは一瞬で、本来であればすぐに消えてなくなります。それなのに、私たちはわざわざあぶくを救い上げ、消えないようにあれこれと手をつくしてしまうからややこしくなる。わざわざ、自分でややこしくしているのです。

 

これと同じで、レットイットゴーを習慣化させることで「心の免疫力」も上げていくことができると私は考えます。何が起きても動じず、他人に振り回されない生き方をしている人は、「心の免疫力」が高い人、ともいえるでしょう

 

レットイットゴーの利点は、一つの感情に執着しないことに加え、今ある感情を手放すことで、次の気づきや感情を受け入れる余白が生じることです

 

一つの感情にとらわれて長く持ち続けることは、新しい自分と出会う機会を奪ってしまいます。常に新鮮な自分であるために、あるがままに感情を受け止めて、どんどん手放していきましょう

 

和尚さんも私も、何も言葉を発してはいません。答えを教えてくれたのは、目の前に広がる庭であり、自分だけの時間です。ただ眺めている間に、何がヒントになったのかはわかりません。けれど、どんなに弱っているときも、人は自然から気づきをもらうことができ、自分で答えを見つけることができる

 

私たち人間は、森羅万象の一部であると実感できたとき、本当の安心感を抱けるのかもしれません。そのことを、この二つのエピソードが教えてくれていると思います

 

このかき混ぜられた泥水こそが、私たちの心の状態です。私たちの日常はいつなんどきも感情とともにあり、手放すにしろ執着するにしろ、湧き上がってくる感情に対処することを繰り返しています。つまり、私たちの心は、かき混ぜられたコップの中の泥水のままで視界がクリアになる瞬間がなければ、自分の本心がどこにあるのか、何を大切にしたいと考えているのか、湧き上がった感情の何に反応してこころが乱されているのか、わからなくて当然です。だから、いったんコップを置き、心を鎮めることが必要なのです。実は、このコップを置くという動作こそが、座禅です。

 

かつてこの話を聞いた女性から、最近になり、「実はあのときコップの話を聞いてから、とても気持ちがラクになったんです」と打ち明けられました。ふと不安がよぎったとき、イライラした時、悲しいとき、強い感情が押し寄せたとき、「大丈夫。私は今、泥水の中にいるだけ」と思うことで気持ちが落ち着き、感情の暴走を防げるようになったといいます。感情のコントロールはできる。それが真実だと教えてくれるエピソードです

 

今は情報の流れるスピードも速く、すぐに答えを求めようとしてしまいがちですが、静かにコップを置いたら、答えが出るまでそのままのんびり待ちましょう

 

繰り返しになりますが、心配は自分が生み出した感情にすぎません。必ず、いつかは消えてなくなります。そのことを私たちは、これまでの人生の中でたくさん経験してきています。その事実を少し思い出してみるだけで、ちょっとした心配事であれば手放すことができるでしょう

 

人は生まれてから死ぬまで、孤独なときは一瞬たりともありません。

 

土の上に人と人が座り、対話している姿を表している座禅という字。誰が対話しているの?というと、自分と誰かではなく、自分ともう一人の自分が対話をしているのです。自分が自分という「自我」と、本来の自分である「自己」との対話です。ですから、座禅をするかぎり、もう一人の自分と常にある。絶対に一人ではないのです

 

いいときも悪い時も、生活はいつも同じがいい。常々、祖父の語っていた言葉です。

いいときに舞い上がって贅沢をすれば、その贅沢ができなくなったときに、自信を失い、落ち込むでしょう。少し仕事に翳りが見えたら、不安で仕方なくなるでしょう。無常の本質とは、「始まりのあるものには必ず終わりがある」ということです。心配事のようなネガティブな事象に終わりがあるのと同様に、そのとき心地よかったことにも必ず終わりがやってきます

 

「無尽蔵」というのは、底がないからたくさん入るという意味の禅語ですが、底があれば過去からのものが蓄積されてしこりのように頭をカチカチにさせてしまいます。底が無い状態にしてやると、新たな考えがどんどん入ってくる。なんとなく、わかる気がしませんか?

 

私は、幸福だから感謝の気持ちを持てるのではなく、感謝の気持ちこそが幸福を呼んでくれるのではないかと思っています。そのことを忘れずに「ありがとう」の気持ちを持って生きていると、心が内向きになることがありません。自分を過大評価することもありません。あれほど難しいと思っていた「ありのまま」を素直に受け入れることができます

 

もちろん、感謝の心で暮らしていても、瞬間的に心が荒れてしまうことがあります。そんなときは、コップの話を思い出してください。一旦コップを静かに置き、深く深呼吸をします。ありがとうと深呼吸の組み合わせは、最強です

 

私は人生の終わりにも「ありがとう」といえる生き方をしたいと思っています。もし、余命の宣告を受けたら、やはり恐怖心も湧き上がってくることでしょう。それでもなお、家族に出会えたこと、その日の出会い、口にしたもの、水の一滴、すべてに感謝をしていたいと思っています

 

なんのために自分にひどい仕打ちをした相手を許すのかといえば、それはほかでもない、自分のためです。自分を裏切った相手を許さずにいると、いつまでも苦の感情を持ち続けることになり、そこに執着が生まれます。執着は一つのところに自分を縛り付け、身動きができないようにします

 

昔から「笑う門には福来る」といいますが、笑顔でいることで、マイナスになることは一つもありません。ひどいことをされたにもかかわらず相手を許し、いつも笑顔でいるあなたを必ず誰かが見てくれています。少なくとも仏様は、そんなあなたを見守ってくれています

 

静かな床の間に飾られた、一輪の花。その凛とした佇まいからは、美しさと同時に力強さを感じます。豪華さや華やかさでは花束にかないませんが、一輪挿しにはずっと見ていても見飽きない、人を引き付けるパワーが備わっているようにも感じます

 

家族は一緒にすごした時間が長い分、過去の出来事などに執着が生まれてしまいがちですが、今、自分がここで暮らせていることに目を向け、今一度、家族が自分にとってどういう存在であるのかを問い直してみましょう

 

死は誰にでも平等に訪れますが、生きる長さは平等ではありません。でもそれは、私たちにコントロールできることではなく、当然のことながら、生きた長さにいいも悪いもないのです。残された者たちが早すぎる死だと感じたとしても、それがその人の寿命であった。その人は寿命をまっとうした。こう考えるほかないのだと、父の死を通して知りました